UPDATED 2015.5.10
 
 

ニッポンの警察署長

各警察署の署長には、相当な権限が委ねられている。しかし、芸能人の一日警察署長が脚光をあびることはあっても、警察署長本人が表舞台に出ることはほとんどない。また、警察署長が、地域の治安にかかわる権限をゆだねられた部署の長として、住民にビジョンや施策を語ることもない。

それどころか、「警察署長がいったいどんな人なのか」かさえ一切広報されていない。これは各警察署毎にホームページが作られるようになった今日でも変わらない。そこにあるのは警察署長の名前だけだ。一方、諸外国の警察署では、このようにホームページに警察署長の写真と略歴、そして政策ビジョンが記されている。

ジュリアーニ前市長

ところかわってジュリアーニ氏が市長に当選したころのニューヨーク。市長となったジュリアーニ氏は街の浄化を宣言し、次々とそれを実行した。当初は「やり過ぎ」との批判もあったものの、後に彼の手腕は高く評価された。

日本の市長には、ジュリアーノ市長と同じことを行うことができない。なぜなら、日本の市長には、警察を指揮する権限がないからだ。そして、ニューヨークでは市長が持つ治安維持のための権限のほとんどを、日本では警察署長が握っている。

では、日本の警察署長は何をしているかというと、“本社”(都道府県警察本部)の指示を仰ぎ、「事なかれ主義」を貫徹しているに過ぎない。

警察署長が「事なかれ主義」に終始するのは、中央集権化された日本警察の組織構造が原因である。つまり日本の警察には、警察署単位で独自の施策を行う土壌がないのだ。視点をかえれば、都道府県警も「横並び施策」ばかりである。

それぞれの警察署が、“本社”の目より住民の目を意識するようになれば、「愛される警察」に変身することもできるはずだ。それもただ愛されるだけでなく、ニューヨーク市のように「治安の改善」という効果と、それに対する「評価」をも得ることができるのだ。

現在の日本の警察官は、“本社”(ひいては警察庁)の指揮の通りに動いて、住民に嫌われる一方であるように感じられてならない。

 
 

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