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行政評価サイト

 「評価」という言葉で多くの方がイメージするのは、先生が生徒の、上司が部下の「評価をすること」なのかもしれせん。
 しかしもっと広い意味での「評価」を誰もが日常的に行っています。たとえば、スーパーで二つの商品を手に取って選ぶ作業は、商品を「評価」することです。またいきつけの美容院を決めたり、1冊の本を買うことは、「評価の結果」だといえます。このように、私たちはさまざまな「評価」を無意識に行っています。

 さて、民間企業は、消費者や投資家の評価≠意識しながら、経営の舵取りをしています。一方、これまでの行政機関が、市民の評価≠積極的に受け入れていたとは言えません。たとえば利用者から「料金が高すぎる!」といわれ続けた道路公団が、料金を下げる努力をまったくといっていい程してこなかったことが代表的な例です。

 私たちが他人ひとに見られることで緊張感を保つように、行政機関も見られていなければ、緊張感を持つことができません。これをメディア側の人々は権力監視≠ニいう言葉で表現します。しかしメディア側の人々が監視≠オてくれたとしても、その内容をわたしたちが評価≠オなければ、行政側の緊張感を保つ効果はありません。

行政機関に対する「評価」はどうなのか?
 それ以前の問題として、多くの人々が行政に興味を持っていません。しかし無数のテレビドラマで、医者と学校の先生と、そして警察官や刑事が活躍しているように、医療・教育・警察はとても身近に感じやすい行政だといえます。
  しかし、医療・教育・警察の現実は、そのどれもが構造的な問題、従事者の資質の問題が指摘されている。にもかかわらず、職業そのもののプラスイメージ(正義の警察官、スーパードクター、熱血先生などなど)によってなのか、ステレオタイプな評価をされることが多いようだ。

3つの身近な行政のなかで、警察への「評価」はどうなのか?
 もちろん人それぞれなのですが、とても両極端に分かれているような気がします。一方は警察をまるで“正義の代名詞”であるかのように崇め、もう一方では露骨な警察批判が飛び交います。
  警察官に表面的にしか関わることのない人々は前者で、日常的にクルマを運転する人々は後者に属する傾向があるようです。こうした指摘は警察内部にも存在します。

 このサイトでは、私自身が考える「評価」は消極的に表現しているつもりです。そしてコンテンツの中心は、私が疑問に思い、調べて、そして考えるプロセスで目にした情報を組み立てたものです。このサイトをご欄の方々が、それらをどのように「評価」するかはわかりません。
  しかし、多くの方々が他人の受け売りではなく、自分自身で「行政を評価すること」が行政機関を「監視」することに繋がるのではないかと思います。そして多くの人々が「監視」することによる「静かな変革」を期待しています。

運営者 野村 一也