レスポンシビリティとアカウンタビリティ - システム批判は行政を変革させる-

「警察批判は見たくない。責任感の強い警察官もいることだし・・・」

こんな意見をあちこちで見かけます。しかし「責任感の強い警察官が存在すること」と、「警察組織に“責任”があること」とは別モノです。勤勉な日本人の多くは、“置かれた環境”で一所懸命に働くのだから、警察にも正義感を持った警察官がいるのは当たり前のことなのです。問題なのは、“警察全体に対する評価”が決して高くない、というところにあります。そしてこの“警察全体に対する評価”は、警察官個人の活動の集合体なのです。

ところで「責任」とはなんでしょうか?成人式ではウンザリするほど「社会人としての責任ある行動を~」「オトナの責任は~」といった言葉が壇上から投げかけられます。しかし、新成人たちから見た大人たちは「責任ある行動」をしているのでしょうか?それ以前に「責任」の意味を自覚しているのだろうか。

1. 権力構造の謎

それまでは、日本の言論で意味を持っていたのは、「責任(レスポンシビリティー)」の概念だけだった。そして「アカウンタビリティー」は、同じ「責任」という語を使って「説明責任」と訳出された。しかし、「責任」が個人の資質をいう概念であるのに対し、「アカウンタビリティー」は個人についていうものではない。やらねばならないと判断したことを精いっぱいやる人は、責任感があるとみなすことができる。つまり、責任はモラルの問題である。それに対しアカウンタビリティーは、システム、仕組み、組織などに関わる概念で、とりわけ政治システムについていわれることだ。人間そのものの質ではなく、人間が活動する場を構成する「関係のあり方」に関わる概念なのである。
※カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の書いた本 「THE ENIGMA OF THE POWER」(邦題「日本/権力構造の謎」)は全世界でベストセ ラーになったのですが、日本の官僚と体勢側の人々はこの本に対して執拗なバッシング を行いました。

2.無責任の手法

「責任」の意味を考えるためには、先に「無責任」の意味を考えた方が分かりやすいかもしません。そこでまず「無責任」について見てみると、現実のオトナたちは子供におとらず無責任な振る舞いをしているようだ。こうしたオトナによる“無責任の手法”には、「やっていない」「知らない」「覚えてない」といった単純否定による“責任逃れ”と、より高度な“責任転嫁”のふたつがあります。そして“責任転嫁”はさらに次のふたつに分けることができる。

(1)他人への“責任転嫁”
   例 1:「秘書が勝手にやったこと」by政治家

(2)システムへの“責任転嫁”
   例2:「公安委員会が決めたこと」by警察官

3.責任転嫁の例(例2)をもっと具体的に

警察官 「はい免許証出して!」
違反者 「取締りに納得ができません」
警察官 「違反は違反だ」
違反者 「でも指定速度が低すぎます」
警察官 「規制は公安委員会が決めたんだ。
  文句があるなら公安委員会にいいなさい」
違反者 「…」
  公安委員会について
法規の現実について
おまわりさんのウソ

実際には警察が決めているのですが、システムのなかに公安委員会を置くことで、この警察官の言い訳は「理由があること」になるのです。 そして、このケースでの警察官は「知らなかった」という“責任逃れ”も可能です。とにかくハッキリしているのは、「交通規制と取締りのシステムにアカウンタビリティが欠如している」ということです。

もし、アカウンタビリティの概念が広く浸透したら、お役人が多用してきた“システムへの責任転嫁”ができなくなります。もちろん警察も同じです。つまり、「ドライバーの納得できる交通規制/取締り」に近づくことができるのです。そして、このサイトでは「行政のアカウンタビリティ欠如」を対象にしています。





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